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日本人も性悪説で(その2) [社会雑感]

  その1で、思考回路の中に、悪魔が誘惑が巣をくう場所があり、その誘惑に乗ってしまうかどうかは、その人の倫理観と取り巻く環境だと書いた。

 現在の日本をみると、それぞれの持つ倫理観に大きな開きが、出来てしまったように思う。

 事件の報道から、「この事件には、善悪の基準が自分とは当てはまらない」と思うことがある。
 「人を殺してみたかった」「苦しむ姿を見たかった」などは、極端な例であるが、ここには、善悪すら存在しないと思えてしまう。
 生まれ育つ中で、今までの日本に一般的に存在する倫理観を、両親・家族・親族・近隣・学校・環境が、身につけてやれなかった事になる。

 「談合は企業をつぶさないために必要だ」と、国民の厳しい批判の中でも、いっこうに減る様子がない。
 ここでも、企業の倫理基準の喪失があり、上司から・役人から・政治家から、善悪を判断する魂を抜き取られてしまった。

 街では、交差点の信号や、踏み切りで、ルール違反が日常となってしまった。
 免許の取得時に、ルールの教育は受け、一定の習得レベルにあると評価され、合格してきたはずなのにである。
 これには、「赤信号みんなで渡れば怖くない」もあろうし、他の車の違反程度及び検挙される可能性をみて、「この程度なら」と程度問題として判断し、エスカレートしてきていると考えられる。

 庶民が、唯一と言っても良いと思うが、精神的なよりどころとして仏教が有った時代には、権力者は社会の安定のために、仏教界の力に期待もし、援助もした。
 法然が、ひたすら念仏を唱えることで救われると説いて、流罪になっていることも、これと関係ないといえない。
 しかし、現在は、良くも悪くも政教分離である。
 この手は、使えない。


今回でも終われませんでした。
次回へ

法然対明恵―鎌倉仏教の宗教対決


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コメント 5

matt

倫理を規定していたのは仏教ではなくて儒教だったと思います。これは、良くも悪くも日本人の精神構造のかなり深いところに巣くっていて、これが薄らぐ傾向にあることそれ自体は日本人が世界基準のものの考え方をできるようになるためには良いことだとも思ったりしますが、そこで下支えする別の倫理がないままだと、収拾のつかないことになってしまいます。
by matt (2005-10-03 10:41) 

matt

>  「人を殺してみたかった」「苦しむ姿を見たかった」

このような欲望はおそらくなんらかの形で異常性愛につながっているのではないかと思います。もちろん、倫理観で縛れればよいのですが、もっと根の深いものがあって、インターネットなどで助長される環境の中では、性悪説とか性善説とかを超えたものの気がします。
by matt (2005-10-03 10:45) 

イエローラブ

mattさん、コメント有難う御座います。
ご承知かと思いますが、儒教が民衆へ浸透したのは、江戸時代に仏教を通して伝わった様です。
ここで取り上げた時代はもう少し前ですが、確かに日本人の倫理に大きな影響を与えているのは、間違いないと思います。
異常者についても、確かに考えに入れてみないとならないと思います。
by イエローラブ (2005-10-03 14:30) 

matt

イエローラブさん
性善説と言うときの「善」の根拠が日本では儒教的な規範にあるのではないでしょうか?そこでは「悪」とされるものが、例えば、「人生楽しまなきゃ」というような判断基準は、ラテンアメリカに行くと当たり前のことで、われわれから見ると、「悪」jそのもののようなことを、大学教授のような地位の高い人でも平気でやっていて、彼らにしてみれば、性悪説なんてとんでもない!と言うようなことになりそうに思います。
by matt (2005-10-03 18:04) 

イエローラブ

性善説は孟子によって、性悪説は荀子によって提唱されたが、どちらも孔子の思想を根底に持った儒教における観念とのこと。
説の云々を論じる事自体が、儒教の場と言うことになりますし、儒教のものさしで、他を測ることもナンセンスということでしょうか。
by イエローラブ (2005-10-04 08:10) 

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